山梨県韮崎市中田町に佇む新府城跡。かつて戦国大名 武田勝頼 が本拠とすべく築いたこの城は、甲府盆地の西縁・七里岩台地上に立地し、西側に釜無川・東に塩川という天然の守りを持つ要害の地に築かれた。石垣を多用しない甲州流の築城術を踏まえ、本丸・二の丸・三の丸、西三の丸・帯曲輪が連なる「連郭式平山城」の構造をもち、丸馬出し・三日月堀・虎口・鉄砲出構など、近代とも通じる工夫を備えていたことが発掘調査によって明らかになっているようだ。




築城は天正9年(1581年)頃から始まり、勝頼が本拠を旧・躑躅ヶ崎館からこの新府城へ移そうとしたことが知られているが、翌年には旧来の城を捨てるかたちで新府城に火を入れたとされ、実質的には築城・運用期間ともに極めて短命であった。
短命ながら、新府城は武田氏末期の集大成とも言える築城技術の結晶と位置づけられている。その構造規模や地形の使い方から、千人〜万人規模の兵力を前提とした設計だったと推察されており、戦国期の軍事施設としても注目されている。また、戦後は1973年に「新府城跡」として国の史跡に指定され、韮崎市が史跡の管理団体となり、保存・整備がなされてきた。



新府藤武神社は新府城築城の際、稲荷曲輪に城の守護神として祀られたとされる。落城とともに焼失した神社を徳川家康が再建したと伝えられている。

毎年4月に行われる、「武田の里祭り」では、御輿渡御と神楽の奉納も行われるようだ。

敷地内には、武田勝頼公の霊社がある。








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